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2号機と過ごした9日間 その3 [活白2号機]


まきば線に降り立った2号機

ラフターのフックも外され、まきば線のレールに着地した2号機。
「あっはっはっは、やっぱり汽車は、あれだねぇ、レールの上にないとダメだねぇ。納まりが悪いもんねぇ。」
糸魚川小学校から2号機を運んできたトラックの運転手さんが、まきば線に載った2号機を見て言います。糸魚川でも短いとはいえレールの上に乗っていたんですけど、やっぱりつながってる線路の上がいいのは同感です。
しかし感傷に浸っている暇はありません。わたしたちに残された時間は限られています。さっそく整備作業にとりかからなければなりません。が、そのためにはヤードの端に降ろされた2号機を機関庫まで回送する必要があります。もちろん自走はできませんので、2号機を牽引するべく酒井102号機がスタンバっています。

でもその前に、確認しなければならないことがあります。ずばり「車輪が回るだろうか」。しかも2号機は蒸気機関車ですから、そのまま牽引したりして車輪をまわすと、ロッドやピストンまでもが動いてしまいます。
幸いにも2号機は25年前に東洋活性白土専用線が廃止になった際、当時機関士だった松沢さんが整備されたのでしょう、ロッド周りはグリースでたっぷりとコーティングされていました。そのグリースを剥がしてみると、ロッドやクランクピンなどは錆付きもなく、そのまま滑らかに動きそうでした。
しかし、そのロッドはピストンに繋がっています。もしピストンがシリンダーに錆び付いたりして固着していたら、当然車輪は回りません。もしそのまま無理に動かしたら、場合によってはクランクピンやロッドの破損にも繋がりかねません。最後に動かしたのは25年前、ピストンが固着している可能性は充分にあります。
そこで、念のため、この時点でメインロッドを外し、ピストンとの繋がりを切り離して機関庫まで回送することになりました。


グリースコーティングされたメインロッドが外される

メインロッドが外されると、この状態で、2号機に酒井102号機を連結します。
そして2号機の車軸のメタルに給油し、牽引に備えます。そして102号機でゆっくりと引っ張ります。102号機のトルクコンバーターを通してじわっと力を掛けていきます。

…するり。

2号機の車輪は何のストレスもなく回りました。2号機はそのまま、さもそれが当然のごとく、ゆっくりと機関庫へと牽かれていったのでした。
空には梅雨の合間の青空が広がっていました。


102号機に推され機関庫に向かう2号機


2号機と過ごした9日間 その2 [活白2号機]


トラックの上の2号機にフックが掛けられる

トラックに載せられ、はるばる日本列島を横断してまきば線にやってきた東洋活性白土2号機、トラックの上でシートがはがされて、そのままヤードの脇にやってきました。それを吊り上げるのは、加藤製作所製の25トンラフター。


ゆっくり吊り上げられ、線路の上に…

…と、このままじゃ、方向がちょっと違います。3号機や6号機と合わせるべく、ゆっくりと半周。


「正しい向き」に方向転換

そのままゆっくりと降ろされます。
ちなみに、2号機の周りに取り付いているミョーに手馴れた人たちは業者の人…じゃありません。みんな羅須地人。
「はい、そのままゆっくりね~」
手信号で誘導です。


やたらと現場に慣れてる羅須地人たち。
ラフターのオペレーターさんもびっくり?!

そして、いよいよ東洋活性白土2号機がまきば線の線路に載るときがやってきました。
四半世紀の時を超えて、かつての仲間たち、1号機・3号機・4号機・5号機・6号機・12号機の載る同じレールの上に、再び2号機が載ったのです。平成19年6月23日、午前6時8分のことでした。


まきば線着地の瞬間
時計の針は6時8分を指していた


2号機と過ごした9日間 その1 [活白2号機]

今回からの数回は、東洋活性白土2号機(通称:くろひめ号)がまきば線で私たちと過ごした日々を振り返って見たいと思います。


朝もやのまきば線

6月23日午前5時。普段ならまだ静かなはずの、朝もやのまきば線。
梅雨のさなかということで、天候が心配されましたが、前日までの雨も上がり、薄日も差してきました。普段であれば静かな牧場の朝が始まります。
しかし、この日は早朝にもかかわらず、数人の男たちがなにやら作業の準備を始めています。そしてその片隅では怪しげな積荷を積んだトラックが停車中です。


トラックの上には謎の積荷が

積荷を覆っていた赤いシートをはずすと、その内側にもブルーシート。でもその隙間から、ちらりと積荷の姿が見えました。集まった羅須地人の間から、思わず声が上がります。


ブルーシートのすき間からちらりと…

いよいよ東洋活性白土2号機がまきば線にやってきました。
わたしたちにとってゆめのような9日間が始まります。


『大鉄道博覧会』が始まりました [活白2号機]

東洋活性白土2号機(通称:くろひめ号)の晴れ舞台、『大鉄道博覧会』が始まりました
わたしたち羅須地人鉄道協会も2号機の整備をやらせていただいた関係で、開催前の7月9日に開催された「内覧会」にご招待いただきました。
平日の昼間というのに集まった羅須地人は総勢10人! 中には仕事休んできた人もいるようです。みんな本当に仕(以下不穏当につき削除)
まず午後3時から開催された開会式では、江戸東京博物館館長からご挨拶があり、その後、会場へとご案内いただきました。

会場に入るとまず、下工弁慶号がお出迎えです。われらが東洋活性白土2号機は、その奥に鎮座していました。


すっかり綺麗にディスプレイされている2号機

2号機には、搬入時にはなかった枕木と砂利が入れられ、またキャブの後ろの窓枠もはめられ、より現役の姿に近くなってわたしたちを迎えてくれました。
そして急遽わたしたちが整備するということになったにもかかわらず、その様子を紹介するパネルまで一緒に展示されていました。


「くろひめ号の化粧直し」というタイトルで
わたしたちの活動もご紹介いただいています

この2号機は、『大鉄道博覧会』の会期が終了したあとは、ふたたび糸魚川市に帰り、市内のフォッサマグナ記念館に展示されるそうです。『大鉄道博覧会』は9月9日まで開催されています。2号機が東京で見られる貴重な機会、皆さんもぜひ江戸東京博物館まで2号機に会いにいらっっしゃってはいかがですか。


糸魚川と2号機の思い出 [活白2号機]


3号機に群がり記念写真
中央には松沢さんの姿も(画像提供:片岡さん)

わたしたちと東洋活性白土株式会社、そして糸魚川市のみなさんとのお付き合いは、昭和47年に遡ります。
羅須地人鉄道協会の前身に当たる「全日本小型機関車研究会」は、当時、台湾の炭鉱から小さな蒸気機関車を1両持ってきました。この機関車(現3号機)を、国鉄小倉工場などで整備し、各地で展示などを行っていました。そして、その展示が終った後の保管場所を探していたのですが、このときに糸魚川市の東洋活性白土株式会社の山田政義社長(当時)に、わたしたちの機関車を置かせていただくよう、お願いに行ったのでした。当時からも、この会社にある小さな専用線は、小さな蒸気機関車(2号機・通称くろひめ号)の働く路線として、鉄道ファンの間では知る人ぞ知る存在でした。
運輸課長であり、2号機の機関士だった松沢義男さんからの口利きもあり、山田社長は「ああいう若い人たちには好きにやらせてあげなさい」と、機関車の保管を快く引き受けていただいたのでした。
その後、全日本小型機関車研究会から機関車などを引継いだわたしたち羅須地人鉄道協会が、東洋活性白土専用線を舞台に活動を行っていくのですが、様々なところで、社長の山田さん、運輸課長の松沢さんをはじめとする糸魚川のみなさんにお世話になったのでした。

当時の羅須地人の活動メンバーのほとんどはまだ学生でしたので、あまりお金を持っていません。見かねた松沢さんがご自宅の近くにある旅館に掛け合っていただき、格安の料金で泊まれるようにしてくれたのでした。それも朝夕2食つきで。これにはお金のない学生会員などを中心にとても助けられました。昼食は、糸魚川市内の商店街で食パンやコロッケを購入、ソースをかけてコロッケパンとして食べたりしました。お店の方におまけをしてもらったのも懐かしい思い出です。
こうして糸魚川市のみなさんに支えられて羅須地人の活動は始まったのでした。

実際の活動でも、松沢さんに様々なアドバイスをいただきました。初めて蒸気機関車の整備を行うわたしたちにとって、運輸課長として日々蒸気機関車を整備運行していらっしゃる松沢さんのアドバイスは大変貴重なものでした。松沢さんの手ほどきを受けながら、車両整備などを身をもって会得していったのです。
現役当時の2号機はいつもロッドが微妙に光っていました。それは松沢さんが手が空くと、いつもオイルストーンで磨いていたからでした。グリースを塗りつけるなんて事は無く、いつもいい塩梅に油が回っていました。そのロッドを見るだけで、松沢さんの機関車に対する愛情がひしひしと伝わってきたものでした。そのような機関車に対する姿勢までも、松沢さんから教わったのでした。


みんなの中心に松沢さん(画像提供:片岡さん)

このような指導を受けながら、わたしたちの活動も徐々に広がりを見せ始めました。糸魚川で活動を始めて3年目にあたる昭和50年には、工場の敷地内にわたしたちのための側線を敷設する許可をいただき、線路敷設が始まります。この工事は順調に進み、昭和55年には機関庫を建設するまでになりました。これも社長の山田さんのご理解があってこその建設でした。
このころには、わたしたちも糸魚川市内の金物屋さん、材木屋さん、塗料屋さん、燃料屋さんなど、様々なお店ですっかり顔なじみになっていました。

そして会の活動も軌道に乗り始めた昭和53年には、はじめて糸魚川市の皆さんをご招待した運転会が開催されます。社長の「市民の皆さんも乗せてあげてほしい」という気持ちと、わたしたちもお世話になった糸魚川の方々に感謝したいという気持ちが一つになり、開催にこぎつけました。5月3日に開催された運転会は、山田社長や松沢さんも近隣の方々にずいぶん宣伝していただいたようで、たいへん盛況のうちに終ることができました。
この運転会は、糸魚川市のみなさんにも大変好意的に受け止めていただき、工場の近隣の方のみならず、宿泊先である双葉荘の女将さんを始め、たくさんの方においでいただき、たいへんご好評をいただき、毎年5月の恒例行事となっていったのでした。

運転会などの活動に際して、わたしたちは山田社長に御礼の品を届けていましたが、あるとき松沢さんから、「社長は三越のコーヒーが大好きなんだよ」とアドバイスをいただきました。それからは糸魚川に行く前に三越でブルーマウンテンの豆の詰め合わせを仕入れるのが恒例となりました。初めてお贈りしたときには、社長は「おお、三越のコーヒーだぞ!」と大喜びされ、手ずから手挽きミルで豆を挽いて、幹部社員にコーヒーを振舞ったと、松沢さんから伺い、わたしたちも大喜びしたものです。

翌年の昭和54年には、運転会の前日の5月2日に、3号機と6号機の重連で山田社長のための“お召し列車”も運転され、山田社長にも大変お喜びいただきました。
昭和55年の運転会は、地元メディアに紹介されたこともあり、大変な賑わいの運転会となりました。羅須地人のメンバーたちもてんてこ舞いの忙しさでしたが、「毎年、これが楽しみでねえ」とお孫さん連れの方に言われると、疲れも吹き飛ぶほど嬉しかったのも良い思い出です。
この後、3号機・6号機を神戸のポートピアで開催された博覧会に貸し出した関係で、昭和56年・57は運転会を中止としましたが、例年5月の運転会はわたしたちにとって糸魚川市のみなさんと交流する大変よい機会となりました。

そしてその間も、山田社長のご理解の下、車両増備も着々と進みました。昭和53年には6号機、昭和56年には、メンバーの自作の蒸気機関車12号機も入線し、羅須地人鉄道協会の活動もますます活発になっていきました。
昭和57年1月には、雪の中、2号機を動かしていただき、念願だった元頸城鉄道のラッセル車を使っての初の除雪運転も行っています。糸魚川に着いた日には全く降雪がなかったのですが、その日の午後から大雪となり、当日は一面の銀世界になりました。はしゃぐわたしたちに、松沢さんが「俺たちは雪が少なくて喜んでいたのに」と微苦笑していたのも、忘れられない思い出です。
こうしてわたしたちは山田社長や松沢さんをはじめとする、糸魚川のみなさんにも温かく見守られ、楽しい日々が続きました。そしてこのような日々がいつまでも続くものと信じていたのでした。

しかし、その年の7月、衝撃のニュースが飛び込んできました。10月で東洋活性白土株式会社が解散し、この専用線も廃止になるというのです。わたしたちとしては、活動の場所が失われるということも痛手でしたが、糸魚川のみなさんとお別れしなければならなくなるということにも大きなショックを受けたのでした。

昭和57年10月10日、廃止となる最後の日に、2号機と共に「さよなら運転会」を盛大に開催し、東洋活性白土専用線は糸魚川のみなさんにお別れを告げたのでした。
すべての車両を連結した最終列車が積み替えホームから工場へと戻るとき、先頭に立ったのは松沢さんが操る2号機でした。さすがの2号機も、列車の重みで大空転を連発し、最後までわたしたちに「本物の機関車」のパワーを見せ付けたのでした。

その後、羅須地人鉄道協会は活動場所を求めて流浪の日々を過ごします。そんなわたしたちに追い討ちをかけるように、昭和59年9月、さらに悲しいニュースが入ってきました。東洋活性白土専用線廃止から2年も経たないうちに、松沢さんがお亡くなりになったというのです。
松沢さんの死は、羅須地人鉄道協会にとって、一つの時代の終わりを告げるものでした。わたしたちは大きな喪失感の中、松沢さんに、そして第二のふるさと糸魚川にお別れを告げたのでした。


松沢さんと2号機(画像提供:正村さん)

こうしてわたしたちにとっての糸魚川の日々は終りました。そこで過ごした日々は、もうずいぶんも前のことになってしまいました。新たな場所で活動を続けていくうちに、わたしたちの中にも、糸魚川での活動を経験していないメンバーが増えてきています。しかし、まだ高速道路もほとんどない中、東京から延々と自家用車を運転して通った糸魚川、松沢さん・山田社長そしてそこで出会ったたくさんの方々との思い出は、今もわたしたちの活動の根底に流れ続けています。

今回、ほんの些細なきっかけから、わたしたちは再び2号機とじっくり向き合う機会を得ることができました。25年前を知るメンバーたちは、2号機のあちこちに松沢さんの面影を感じ、「松沢さんの見ているところで手抜きはできないだろう」と作業に真剣に打ち込みました。ぼろぼろに腐食した運転台後部の板は再生不能でそのまま取り外されることになりましたが、そのままではその板についていた運転席もなくなってしまいます。外見上は大きな問題はないのですが、「2号機に松沢さんの席がないなんて訳にはいかないよな」とあるメンバーが言い出し、結局、その部分は新たに作りなおされたのでした。
25年前を知らないメンバーも、ロッドに挿んであったすき間調整の手作りシムや、25年前のままの工具箱の様子から、改めて松沢さんの人となりを感じ、薫陶を受けることができました。
作業が終った夜、機関庫に入った2号機を見ながら、松沢さんや糸魚川の思い出を遅くまで語り合うこともありました。
私たちの元に2号機が訪ねてきてくれたのは、ほんの9日間ですが、とても充実した日々を過ごすことができました。そして、久しぶりに松沢さんとじっくり語り合えたような気がしました。

今回、2号機の整備された姿をご覧になった多くの方々に、お褒めの言葉をいただきました。「どうやったらこの短期間でここまでできるのか?」とお聞きになられた方もいらっしゃいました。しかし、わたしたちは何も特別なことはしていないのです。あの日、あの機関庫で松沢さんに教わったことをそのままやっただけです。
それが、松沢さんに、山田社長に、そして糸魚川市の皆さんに、少しでもご恩返しになれば、こんなに幸せなことはありません。

…わたしたちが整備した2号機に、松沢さんは合格点を出してくれたでしょうか?


今回の整備で、キャブ内の検査票入れの中には
微笑む松沢さんの写真が入れられた


東洋活性白土2号機がまきば線にやってきた その2 [活白2号機]


きっかけとなった5月27日の蒸機運行

東洋活性白土2号機(通称:くろひめ号)がまきば線に来ることになった発端は、5月27日の蒸機運行日に遡ります。
2号機の展示を行う「大鉄道博覧会」の事務局をされているYさんという方が、この日、まきば線をご訪問されたのでした。
Yさんは、もともと鉄道の保存活動にも携わった経験があり、以前からわたしたちの活動にご興味をお持ちだったそうです。そしてこのときも、お知り合いでちょくちょくまきば線にいらしている鉄道ライターのSさんから「27日ならまきば線の蒸機運行日ですから一緒に見に行きましょうよ」と強くお誘いを受けたそうです。
Yさんとしても、この日はたまたま「大鉄道博覧会」の事務局として千葉方面に用事があり、別に何か考えがあったわけではないそうなのですが、ちょっと早起きして、成田の奥のまきば線まで足を伸ばしたのでした。

そのころ、Yさんは「大鉄道博覧会」の事務局として、そこで展示される様々な展示物の準備のため、精力的に動き回わられていました。東洋活性白土2号機もその展示物のうちの一つでしたが、Yさんとしては他の展示物に対して2号機が少々くたびれていることが気がかりだったそうです。
東洋活性白土2号機は、屋根の下に保管し、運転室には扉をつけていたとはいえ、屋外保存の宿命で、やはり25年の間に塗装も劣化し、車体のあちこちにはサビなどで穴が開いているような状態でした。一方、他の展示物はほとんどが鉄道会社や鉄道ファンの方々が大切に保管されているもので、大変状態のいいものばかりです。また2号機と同時に展示される小型蒸気機関車「下工弁慶号」もつい最近まで火が入っていた動態保存機でありピカピカです。
これではせっかく2号機を糸魚川から持ってきても、他の展示物に対してバランスが取れないのではないかと、危惧されていたそうです。


糸魚川小学校で展示中の2号機

5月27日、Yさんがいらしたまきば線では、3号機を使用して蒸機列車の運行を行っていました。そしてわたしたちが古い蒸気機関車を整備しながら運行している状況をご覧になったYさんは、お悩みだった2号機の展示前整備についてわたしたちにアドバイスを求められたのでした。

一方、わたしたちも「東洋活性白土2号機が東京で展示されるらしい」ということは知っていましたが、どのような経緯かは全く知りませんでした。
ご存知のとおり、わたしたち羅須地人鉄道協会は、その黎明期には、東洋活性白土専用線を活動の舞台としていました。そして、2号機の機関士でもあった松沢運輸課長はじめ東洋活性白土(株)のみなさんには、蒸気機関車の整備をはじめ、様々なことでお世話になっていました。そして糸魚川市のみなさんもそのような活動を温かく見守っていただいたのでした。
糸魚川市の皆さんをご招待して、毎年5月に行われた羅須地人鉄道協会の運転会では、わたしたちの機関車と共に、2号機も一緒になって走らせていただき、ご招待した皆さんに喜んでいただいたものでした。このようなこともあり、2号機には大変強い思い入れをもつメンバーが少なくありません。


東洋活性白土専用線での2号機(右)と
羅須地人の3号機・6号機(昭和57年)

このような思い出を持つだけに、今回、わたしたちのところに2号機のご相談が持ち込まれるということについては、正直、奇妙なご縁を感じました。もちろん、わたしたちはあくまでもアマチュアですので、できることは限られます。しかし羅須地人鉄道協会にとってゆかりのある機関車が困っているのであれば、できるかぎり協力するのは、2号機や松沢さん、そして糸魚川市のみなさんにお世話になったわたしたちの責務ではないかとも感じていました。
そのような想いが根底にあるためか、Yさんへのアドバイスは、気が付くと「2号機をまきば線で整備できたらなぁ」という話になっていたのでした。

そして実際に蒸気機関車を運用している状況をご覧になっているYさんのほうでも、お話をしていくうちに「羅須さんで整備していただけるものなら、ぜひお願いしたいなぁ」というお話になっていったのでした。
もちろん、この展開はYさんも予期しないものでしたから、まずは所有者である糸魚川市、そして主催者の江戸東京博物館がOKを出すか、そしてもう会期まで1ヵ月半しかないこの状況で、まきば線に持ち込むスケジュールが確保できるかどうか、全くわかりません。
ということでこの日は、Yさんのほうで調整していただくということで終わりました。

その後、Yさんは、わたしたちの気持ちが伝わったのか、2号機のまきば線での整備に向けて、精力的に動いてくださいました。Yさんの2号機を思う熱意に、ほどなく所有者の糸魚川市および主催者からは羅須での整備にOKを出していただくことができたのでした。
しかし、問題はまだあります。会期は迫っており、スケジュールの変更が容易ではなかったのです。糸魚川小学校からの搬出日はもう決まっており動かすことができません。一方、展示のための会場への搬入も、機関車を先に入れないことにはその他の展示物が配置できないということで、早めの搬入が必要でした。そのスケジュールの中では、まきば線に搬入することはできなくはないものの、搬入日の翌日には搬出しなければならない日程しか組めません。これではせっかくまきば線に持ち込んでも、できる整備はずいぶん限られてしまいます。
Yさんはその後もぎりぎりまで粘り強く調整を続けられました。そして様々な方のご理解・ご協力もあり、ようやく6月23日搬入、7月1日搬出の9日間滞在という日程をひねり出したのは、まきば線搬入のわずか5日前、6月18日のことだったのでした。

あの日、鉄道ライターのSさんがYさんを誘わなかったら、そしてYさんに千葉方面での用事がなかったら、Yさんはまきば線にいらっしゃることもなく、東洋活性白土2号機のお話もなかったでしょう。
きっかけはほんの偶然だったかもしれません。しかし、その偶然を偶然で終らせないために、Yさんをはじめとする様々な方が、2号機を何とかしてあげたいと、気持ちを一つにしてご尽力くださいました。
そのおかげで、わたしたちはまきば線で東洋活性白土2号機と久しぶりの対面を果たすことができたのでした。

さらに続きます


東洋活性白土2号機がまきば線にやってきた その1 [活白2号機]

今回、この東洋活性白土2号機(通称:くろひめ号)がまきば線にやってきました。その背景には多くの方々のご尽力と、そしていくつかの大変幸運な偶然が重なって、ようやく実現したのでした。


まきば線から旅立つ直前の2号機

もともとこの機関車は、福島県にある協三工業株式会社で製造されました。製造年については、実際には諸説があるようですが、その銘盤から昭和31年とされており、この機関車は日本で最後に製造された実用蒸気機関車とも言われているのでした。(その後も遊覧用の蒸気機関車は製造されています)

その後、この機関車は新潟県糸魚川市の東洋活性白土株式会社に買い取られ、同社の専用線で使われることになりました。この専用線にはすでにもう1台の蒸気機関車(1号機)がいましたが、不具合があったとのことで、この機関車が増備されたようです。そのため同社ではこの機関車は「2号機」と呼ばれるようになりました。
この専用線で、2号機は工場と糸魚川駅近くの積み替えホームとの約800mの間を往復することになりました。短い距離でしたが、製品をトロッコに積んで、国鉄の貨車が待つ積み替えホームへと運ぶ毎日が続いたのでした。

その後、昭和48年にはわたしたち「羅須地人鉄道協会」が自分たちの機関車をこの専用線に持ち込ませていただき、毎年5月には運転会を行うようになりました。このイベントは糸魚川のみなさんにも公開され、大変賑わいとなりました。そしてこのときにも2号機も登場し、大活躍したのでした。
(ちなみにその様子はpleiadesの蒸気機関車写真館こちらでご紹介いただいています。)

そのころ同じような専用鉄道で蒸気機関車がディーゼル機関車に代わったり、また鉄道そのものを廃止してトラック化するところがあっても、この東洋活性白土専用線ではいつものように2号機が工場と積み替えホームの間を行ったり来たりの日々が続いていたのでした。そして気が付くと、国内で蒸気機関車を使っている鉄道はここだけになっていました。2号機は“日本で最後に製造された実用蒸気機関車”だけでなく、“日本で最後まで使われた実用蒸気機関車”にもなっていたのです。

しかしそんな日々にも終わりがやってきました。昭和57年、東洋活性白土(株)が解散することになってしまったのです。そしてこの機関車は糸魚川市に寄贈されることになりました。廃止になるその日まで元気に動いていた機関車でしたから、糸魚川市としても動態で保存をする計画があったそうです。しかしその後、計画は変更になってしまったようで、程なくこの2号機は糸魚川駅の裏にある市立糸魚川小学校の校庭に展示されることになったのでした。
1両分の短い線路の上でしたが、屋根つきということもあり、他の保存蒸気機関車と比べても、良い状態での保存でした。運転台にはアルミサッシの扉が設けられ、周囲には柵が作られ、いたずら防止のため、いくつかのネジは溶接されました。その後、2号機は小学校の校庭で長い月日を過ごします。

そしてこの機関車に再びスポットライトが当たる日がやってきました。それは2号機のボイラーから火が落とされて25年目のことでした。
今年7月10日から東京・両国の江戸東京博物館で「大鉄道博覧会」というイベントが開催されることになり、そこでこの東洋活性白土2号機を展示することになったのでした。
このイベントでは、“昭和”という時代にスポットを当てて鉄道を見てみようということで、当時の鉄道で重要な役割を果たした蒸気機関車を会場内で展示できないかという話になったそうです。展示会場は屋内のため、大きな蒸気機関車は無理ですが、小型の軽便用蒸気機関車であればということで、いくつかの蒸気機関車が候補に挙がったそうです。そして“最古の国産動態保存機関車”である「下工弁慶号」とともに“国産最後の実用機関車”ということで「東洋活性白土2号機」が選ばれたのでした。

いよいよこの2号機がふるさと糸魚川を離れ東京に来ることが決まりました。しかしまだこの段階では、まきば線にまで来ることにはなっていませんでした。


“国産最後の実用機関車”を示す2号機の銘盤

つづきます


昔の仲間と再会しました [活白2号機]


昔の仲間がまきば線にやってきました。
離ればなれになったのは、ついこの間のことだと思っていましたが、でも気がつくとあれからもう25年もの月日が経っていました。
久しぶりに会った彼は、ちょっと疲れているようでしたが、それでもまきば線でわたしたちと一緒の日々を過ごしているうちに、すこしは元気を取り戻してくれたようです。積もる話もいろいろありましたが、まきば線に来てから9日目の今日、彼は次の目的地へと旅立っていきました。

いろんな方々のご尽力で実現したこの9日間は、わたしたちにとっても夢のような9日間でした。彼と語り合ったその9日間については、ここでまたゆっくりとお話させていただくことにしましょう。
そしてなにより東洋活性白土2号機がまきば線の仲間たちと再び会えた事に感謝します。

彼の晴れ舞台が盛大なものになりますように。


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